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【INSIDE MMA】「熱く、激しく、まっすぐに。」

 

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(文◎佐佐木澪)

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PANCRASE 2011 IMPRESSIVE TOUR (2011年9月4日◎東京・ディファ有明)
<メインイベントフェザー級暫定キング・オブ・パンクラスタイトルマッチ5分3R>
○タクミ(パラエストラ大阪/同級3位)
 [判定3-0] ※三者とも30-28
●鹿又智成(パラエストラ八王子/同級1位)


no80_main02.jpg 17年前。鹿又は、いわゆる"荒れた中学生"だった。学校も、世の中も、見るもの聞くもの全てに腹が立って仕方がなかった。常にイライラし、突っかかった。学校の生活指導の時間にキレて、先生に椅子を投げたりした。鹿又は回想する。
 「調印式でも言った、アホという言葉がそのまま当てはまる小僧でしたね。変なところで負けず嫌いで、ケンカばっかりしていました。
 学校は、友達もいるし、大好きで行ってましたけど、とにかく何もかもに反抗していましたね。先生をぶっ飛ばしちゃって停学になったこともありました。義務教育なのに...。2週間、学校には行けないし、家からも出られないし、あの時は辛かったです。本当にアホでした...」
 そんな中学生活で、唯一、夢中になったのが格闘技だった。

 当時、深夜に放送されていた格闘技番組は欠かさず見た。様々な格闘家や団体が紹介される中で、鹿又少年の心をひときわ惹き付けたのはパンクラスだった。「だって、全員があの"ハイブリッド・ボディ"なんですよ!? 衝撃でしたよ!!」
 かっこいい! こんなかっこいい人たちを見たことがない。身体じゅうの血が熱く燃えた。自分もこうなりたい。中学を卒業したら、パンクラスに入ろう!! そう決めた鹿又少年は、身体を鍛え始めた。当時、話題を呼んだ『船木誠勝のハイブリッド肉体改造法』がバイブルだった。
  「不良だったので(笑)、よく夜中にコンビニ前で仲間とたむろしてたんですけど、僕は健康マニアだったのでタバコを吸いませんでした。時間になると"あ、時間だ"ってそこを抜けて、家に帰ってゆで卵の白身を食って、また仲間のところに戻ったりしていました」
 大好きだったのが高橋義生(現・和生)。「高橋さんが日本人で初めてUFCで勝ったじゃないですか(※1997年2月・UFC12、ヴァリッジ・イズマイウ戦)。あれを見て、パンクラスは本物だ! と思いました。とにかく衝撃で、中学を卒業したら自分もこれをやるんだ、と、どんどんハマってディープになっていきました。部屋にはパンクラスのポスターを貼って毎日眺めて、俺はここに入るんだって念じていました。あの頃のことは、いま思い出しても興奮してくるほどです」
 しかし、当時のパンクラスには階級制はなく、入門にも身長・体重の規定があった。頑張ってゆで卵の白身や鶏肉を食べたが、なかなか規定には届かなかった。そんな時、知ったのが修斗だった。
  「あっ、軽量級でもこんなのができるんだって思いました。その頃、佐藤ルミナさんが、日本人でブラジリアン柔術に初勝利を挙げて(※1997年1月、修斗・ヒカルド・ボテーリョ戦、佐藤がヒールホールドで勝利)。ルミナさんは一本を奪うとともに、僕の心も奪いましたね」
 階級制なら自分もやれるかも知れない。よし、卒業したらスーパータイガージムに入門だ! と、鹿又少年はパンクラスから修斗に進路を変えた。

 さらに、中井祐樹対ジェラルド・ゴルドー(※1995年4月、バーリ・トゥード・ジャパン・オープン1995)を知った。「中学生に生観戦は敷居が高かったので、リアルタイムで見ていたわけではありませんでしたが、あとで、その試合をビデオで見て、涙が溢れてきたんです。そんなの初めてでした。本当に心奪われました」
 この試合を知った翌日に電話し、パレストラ(現・パラエストラ)東京に入門。こうして鹿又少年は、パンクラスではなく修斗の道へディープに進んでいくこととなった。

 2002年、第9回アマチュア修斗選手権で優勝し、プロ修斗デビュー。その後、DOG、Cage Warriors、CAGE FORCE...。そして2009年8月、パンクラスに参戦。
 「CAGE FORCEで負けて、どうしようかなと思っていた時、掣圏会館の桜木(裕司)さんに"パンクラスなんて、いいんじゃないの?"と言われたんです。あの頃は、まだ今ほどパンクラスと修斗の交流がなかったので、修斗でデビューした自分に、パンクラスに上がるという選択肢は思い浮かびませんでした。でも、一番最初に憧れた団体。もし使ってもらえるならやってみたかった」
 こうして、周りの尽力もあり、中学生の頃あれほど憧れたリングに上がることとなった。
 「パンクラスに上がらせていただく時、後悔しないようにやろうと思いました。僕は所属ではないので図々しいですけど、上がらせていただく以上、自分はパンクラスの人間だと思って必死に闘おうと覚悟を決めました。そしてベルトを獲りにいこうと決心しました」

no80_main19.jpg 参戦2年、9戦負けなし。満を持してのタイトルマッチだった。この試合は、鹿又のための試合だったと言っても過言ではない。
 しかし、レフェリーの左手は鹿又の手首を離し、勝者の手を上げた。鹿又は思わずリングにしゃがんだ。あれほど巻きたいと思い続けてきたベルトは相手の腰に巻かれた。
 負けたが、試合は大会ベストバウトに選ばれた。
 鹿又の負けっぷり。それは、王者の強さに匹敵する強烈な印象を与えたのだ。

 年齢から、もう限界なのかと感じていたこともあった。
 しかし、SRCでマルロン・サンドロと闘った頃から変わった。
  「サンドロにアッパーでぶっ飛ばされて負けて、そのあと、アメリカに行った。そこで練習しているうちに格闘技に対する考え方が変わりました。サンドロのあのアッパーが、僕の脳みそを変えてくれたんですね」
 人は、負けた時に変わることができる。しかし、負けたことを他人のせいにしていては、進歩はない。(起きたことを、マイナスにするもプラスにするも、自分次第だ。たとえ負けても、それは未来の自分の栄養。負けた時こそチャンスなんだ)
 鹿又はそういう男なのだ。

 タイトルマッチの翌日から、練習を再開した。いま鹿又は、格闘技を続けて来られたことの幸せを噛みしめている。
  「人生は1回しかないから、好きなことをやらなきゃ。自分は何でもちょっと激しくなり過ぎちゃいますけど(笑)。人生って本当に面白い。いろいろなことがありましたが、諦めずに格闘技を続けてきて良かった。30代に入って、やっとそう思えるようになりました」
 パンクラスのベルトを目指して、鹿又は新しい一歩を踏み出した。

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 最後にひとつ。
 鹿又といえば、タトゥーが思い浮かぶ。
 ひときわ目を引くのは、桜の和彫りだ。洋風のタトゥーを入れる選手は多いが、気合いの入った和彫りはそう見ない。その辺がちょっと違う。
 鹿又がタトゥーを入れはじめたのは2003年、修斗の新人王トーナメントで準優勝に終わってから。決勝でKO負けしてネガティブになり、タトゥーを入れたのだ。
 だが、不思議なことに、桜を彫った頃から回復していったという。
  「本当はこの桜を一番に入れたかったんですけど、実はちょっと躊躇して、軽いタトゥーから入りました。和彫りへのステップみたいな感じで(笑)。桜を入れたかったのは、時代劇の『遠山の金さん』の影響。小さい頃、おじいちゃん、おばあちゃんっ子で、いつも一緒にテレビの時代劇を見ていたんですよ。一番好きだったのが金さんでした。お白州の場面でもろ肌脱ぐのがかっこよくて、憧れました」
 鹿又の桜。それは「遠山桜」だった。テレビの中でもろ肌脱いだ遠山の金さんは、いつも悪人を懲らしめて痛快だ。
 熱く、激しく、まっすぐに。
 この遠山桜が目に入らぬか!


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